
オーストリア系ユダヤ人でアメリカに亡命したジャーナリストのロベルト・ユンクは1957年、広島に入る。そこで、シアトル生まれで広島移民の子であるカオル・オグラ(小倉馨)と出会う。英語が堪能な小倉の仲介努力によって、ユンクは1959年にスイスで「灰墟の光」を出版。この著作は欧州に大きな衝撃を与えた。そこには体調を崩した被爆者が社会から差別されていた実態が描かれていた。
さらには、”サダコの折り鶴”としてのちに世界的に有名となる佐々木禎子さんの挿話も盛り込まれていた。佐々木禎子さんは、原爆投下約10年後に白血病と診断され、12歳で亡くなる。禎子さんの突然の死は、被爆による恐ろしさが依然として社会全体に存在していることを世界に伝え、欧米で様々な形で引用されていく。そして、やがてある出会いにも発展していく。原爆投下時の大統領・トルーマンの孫であるクリフトン・トルーマン・ダニエル氏と佐々木禎子さんの兄・雅弘氏との交流である。敵国だった日米市民が、ジャーナリストたちのルポなどによって、憎しみではない交流へとどう進んでいくことができるのか、実例として学ぶことができるケースでもある。