
第二次世界大戦中は従軍記者として名をはせたハーシーは、米軍とのコネクションを生かし1946年5月広島入りする。そこで、牧師・谷本清と出会い、英語での書簡を交わし、凄まじい被爆体験に触れた。帰国後、雑誌「The New Yorker」の編集長と接触、20世紀ジャーナリズムの金字塔と言われる「HIROSHIMA」が出る。この出版にはリスクを伴うため秘密裏に行い、家族も大都市から地方に避難させていた。
ハーシーの「HIROSHIMA」の発表によりアメリカ社会に衝撃が走った。これに対抗するため、戦争中の米軍制服トップ、ヘンリー・スティムソン陸軍長官による論文が発表される。「原爆投下で100万人アメリカ兵が救われた」、この現在も続く、原爆投下の正当性の論理が形成されていくことになる。一方で、ハーシーは米ジャーナリズムの主流から距離を置き、長らくHIROSHIMAは忘れ去られる。